みなさんは意識高い系はお好きだろうか?
一時期この言葉が流行り、典型的な意識高い系の言動がクローズアップされたりした。
「意識高い系」の場合、やたらと自慢話が多いという特徴を持ちます。自己顕示欲が強く、常に自分の能力の高さや人脈の広さなどを誇示したいという気持ちを持っているので、聞かれてもいないのにその手の話をしたがります。仕事でどういう業績を上げたかや、誰と知り合いで、どういった便宜を図ってもらえるかといった種類の話です。
上記はオールドスタイルの意識高い系だと筆者は考えている。
意識高い系も進化して然るべきだ。
ネオ意識高い系は仮想敵を作り、撃墜数を価値にした
意識高い系の「あるある言動」が拡散されると、バカにされることを過度に恐れる潜在的意識高い系はその言動を抑え始めると同時に、その言動をバカにする。
オールドスタイルの意識高い系を攻撃することで「私は意識高い系ではない」というアピールに走るのである。
しかし、それだけでは差別化にならない。
そもそも意識高い系の巣窟であり量産拠点はどこか?と考えると大体はIT業界である。(次点で投資界隈だ)
模倣対象は著名なIT系起業家・投資家、ビジネス系Youtuberだろう。
意識高い系は言い換えると「それら業界著名人の狂信者」とも言えるため、有名な彼らの思想や言動が大きく反映される。(模倣するだけだが)
しかし、どこの馬の骨ともわからないレベルのパンピーが彼ら(IT起業家など)を真似てたいそうな展望や見解を語ったところ賞賛なんてされなければ参考にもされない。
もちろん大きな資産もなければ、誇れる人脈や学歴もない。
そこを無理に繕い押し出せばオールドスタイルの二の舞になってしまう。
オールドスタイルは自分で攻撃しているのでもう使えない。
「自分を周囲より上げて見せる」が封じられると「周囲を自分をより下げて見せる」という方向性に向かう。
しかし、ご近所同士で争うことはできない。
IT分野は間違えてマウントをふっかけると本物に遭遇し徹底的にボコられる可能性があるからだ。
そこで取り入れられたのが「非科学的な思考をしていると思われる人々への徹底的なマウント」である。
これは昔からあった。理系を自称する人達の中には非科学的なものに親を殺されたかのごとく憎む人がいる。
しかし、彼らとの違いは「非科学的かどうかはどうでもいい」という点である。そこじゃないのだ。
金や学歴、人脈など目に見えてわかる武器がない以上「こんな俺でも必ず勝てる」という点が何より大事なのだ。
そして彼らは撃墜数を勲章にした。
だからネオ意識高い系は自身で考えることよりもソース(情報の出所や権威性)を重要視する。
非科学的なものを信じている(と思われる)層はマウントを取り論破する相手としてあまりにも都合がいい。
ここまで読んだ人であれば、とあるIT畑の有名人が脳裏に浮かんだであろう。
なぜ彼があそこまで持ち上げられたのか、わかる気がしないだろうか。
ま、私の感想ですけど。
そして、彼らにとっての晴々しいデビュー機会が2020年に起こった。
おかげさまで昨今は情弱ならず陰謀論者というワードが首位を独走中だ。
ネオ意識高い系の弱点
- 「非科学的かどうかはどうでもいい」という点である。
- 自身で考えることよりもソース(情報の出所や権威性)を重要視する。
上記は筆者が述べてきた一部を抜き出したものだが、弱点はここに尽きる。
フォロワー集めに躍起になる人同様、勝利の質ではなく数なのだ。
ネオ意識高い系は同じような勝利を重ねることしかできないうえ、仮に状況が変わっても安易に手のひらを返すことができないのである。
なぜなら撃墜数を勲章に他人にマウントを取りまくってきたのだ。
撃墜しても相手は死んではいない。風向きが変われば一斉に反撃を喰らうまでだ。
(風向きが変わらないことも見越して権威に縋る訳だから彼らは負けを認めないが)
ネオ意識高い系の本質は「他者依存」であり、負けることへの過度な「恐怖」にある。
このあたりは人脈自慢の多いオールドスタイルとほぼ変わってない。
「模倣→自立」ではなく「模倣→依存→模倣→依存」のループに入ってしまった。
だから依存先がダメになるとフリーズしたかのように路頭に迷う。
かといって散々マウントかました側に寝返ることもできず、負けを認められないと小学生みたいな「レッテルの連呼モード」に入る。
口では「奴らとは議論をする価値がない」などと言うだろうが、議論できないからレッテルの連呼で回避せざるを得ないという状況なのだ。
こうして見てみると、奇妙なまでに機械的(コンピューターという意味)な挙動なのだ。
彼らは確実にAIに依存先としての活路を見出しているし、誰かが言った「AIが人間を管理する世界」というのは決してファンタジーだとは思えないと感じてしまう。