へのへのもへじ

偉そうに思う事を書くだけ

当たり前には刺激を感じない。ジンクスで引き寄せを理解する

人には何かしら「自分だけのジンクス話」がある。

他人と雑談したときにふと話したくなるようなジンクスを持っていることだろう。

 

  • なぜかコンビニのクジは当たりを引きやすい
  • なぜか外国人などによく道を尋ねられる
  • なぜか猫や犬になつかれる
  • なぜか大事な日に晴れる or 雨が降る
  • なぜか興味のない人に好かれ、好きな人に好かれない

 

筆者が言う「自覚が先で体験は後」を聞いた後なら「こんなジンクス、望んでないし自覚なんかしてない!体験が先で自覚(ジンクス化)が後じゃないか!」と思うだろう。

 

しかし、そもそもの話だ。

「自分にはよく起こる」とジンクス認定したとき、それを掘り下げて考えた事はあるだろうか?

 

(人にもよるが)最速なら3回でジンクスを疑い始める。

 

1回目→何も思わない

2回目→え?また?

3回目→よく起こるなぁ(といってもまだ3回目だ)

 

これこそ、ただの思い込みも甚だしいのだが「よく起こっている!」という自覚をする頃には、その後もその状況が訪れやすくなるムーブをしている。

 

つまり、途中からは「自分にはよく起こる」という自覚が引き寄せている。(それが起こりやすい状態を自ら作り出している)

実際、友人や家族に話すときも「なんでかわからないけど、よくあるんだよね〜」という心境で淡々と話すだろう。これは引き寄せで必要な心持ち(姿勢)である。

 

 

 

ここで考えたいのは1回目と2回目(事の発端)である。

1回目の時点では「それが起こること」は意識に上がっていない。つまりノーマーク・ノーガードの状態で起きている。もちろん願望でもない。

 

ここは偶然起きたのだと思うだろうが、それが起きるきっかけとなった自覚を認識できていないともとれる。

 

よく「今の自分に起きたことは、どの時点での過去の私が引き寄せたものか?」という問いがあるが、人間は顕在意識で認識していないものはそもそも思い出せない。

理屈で答えなど出せないので偶然や運という結論になる。

 

だから「ほれみろ!体験が先で自覚(ジンクス化)が後なんだよ!」と言いたくなる気持ちもよくわかる。

 

顕在意識は都合がいいので自由気ままに解釈できる。

この手の話を聞いて「オカルトだ」とか「胡散臭い」とか思うのも顕在意識が自由に解釈した結果だし「あるかもしれない」と思うのも同様だ。

 

 

しかし、根拠と再現性を理屈で理解できるまで受け入れられない人間は、理解できるまで行動しない日々を引き寄せる。

(受け入れられないという自覚が、その場から動かないという体験を作っている)

 

 

しかし、理解するよりもまず動く人間は圧倒的な失敗もするが、圧倒的な成功もしている。

なぜなら「たぶん、ある。」でGOできるからだ。

 

「ある」も回数を重ねて自覚が伴えば根拠などなくとも「なぜか私の行く先々に”ある”んだよね」というジンクスとして回るのである。

 

ある人はこれを端的に「考えるよりまず行動しろ」と言うだろうし、そっちの方がスピ臭くなくなるが、今の時代には体育会系すぎるのだ。

 

行動にはメンタルが欠かせない。メンタルを無視した行動はすぐに頓挫する。

頓挫する時点で「ある」が当たり前である確信をできていない(できなくなっている)。

 

理屈ばかり求める人間に「頭でっかち」という悪口があるのがそのせいだ。

理屈はメンタルを補助することはできるが、メンタルの全てにはなり得ない。

 

 

 

 

ここで本来の引き寄せに戻るが、引き寄せ実践者は何かしら願望がある。

 

引き寄せの本質は「先にその願望を満たせる(あるいは満たした)という確信を持ってしまえ」という解説が多い。

 

  • 願望が叶った状態を当たり前だと思え
  • その状態になった自分を感じろ
  • 理想の自分に今すぐなれ

全部同じことである。前述したジンクスの話もだ。

 

 

しかし、前述したジンクスの「なぜか起こるんだよね〜」の心境には「叶ってほしい!叶わないと困る!」みたいな現象化を求める感情は一切無いのである。

 

もし自分にジンクスめいたものがあるなら、それが起きる前の心境を思い出してみて欲しい。

「自分の日常にはよくある出来事である」という自覚が腑に落ちているからだ。

 

頻繁に起こることほど刺激を感じなくなるのが人間である。

 

転職に成功して年収が200万アップしたとする。

最初は喜ぶが、そんなのも3年目からは「今の年収が当たり前」という風に思うよう生活水準が上がったりする。

 

 

よく「願望を手放せ」とか「忘れた頃に叶う」といわれるのもわかる。

願望に執着してる人間は「それが当たり前になっている人間の姿」とは程遠いからだ。

 

願望に執着しているほど、それを当たり前に思えてない。

しかし、必死に願望を忘れよう忘れようと思うほど苦しいのだ。

自然ではない故に引き寄せはうまく作動しない。

 

昔狂おしいほど好きだった人を「今思えばなんであんなに好きだったんだろ?」と思うことがあるだろうが、その位の精神性じゃないと余裕が生まれない。

 

 

さらに筆者の考えとしては「常にワクワクとかポジティブとかは必要ない」と思っている。

例えば金持ちでも怒りっぽくていつもネガティブを振り撒いてる奴はいるからだ。

たまに詐欺師が捕まると儲けた額は何億と報じられるが、もはや行為が善良である必要すらない。(金を得るという意味ではの話、捕まるリスクは上がる)

 

ヒモ男やDV男がモテるというのも、最近の頂き女子もそうだ。

政治家なんか昔からずっとそうだ。

 

彼らは悪事の認識があろうと無かろうと、それでも強烈な自覚(ジンクス・確信)を持っているのだ。

 

 

 

引き寄せにおいて最も良いのは思考を止めること。

 

「なぜかそうなる。理由?知らん」でいいのだ。

理由が欲しければ「自分はなぜか運がいいからだ」とかでいい。

運が良い理由も「なぜか運がいいから運がいいのだ」でいい。永遠にこれでループさせていればいい。

 

別に嫌なことが起きても「ウンガイイノダ!」と感情を偽れという話ではない。

 

筆者なんかは嫌な対象にはモロに暴言も吐くし悪口も言う。(このブログを読めばわかるだろう)

 

筆者は「運が良い俺に意地悪したあいつには天罰が下る。あとムカつくから暴言吐いて忘れよ〜」といった具合だ。

逆に親切にしてくれた人には「運が良い俺に親切にしてくれたあの人には大きな幸福がやってくるだろう。たくさん良いことが起こるよ!ありがとう!」と確信しつつ感謝して終わる。

 

 

普通に喜んで、普通に怒って、普通に悩んでいい。

しかし、どうあがいてもふと我に帰れば「あ、俺は運が良い生き物だったのだ」という前提を思い出し安心するだけなのである。

 

それで実際、うまく回っているのだから。

 

【老害】機材マウントおじさんの悲しい生態

先日、非常に不快なブログに遭遇した。

まぁ普段ならそこで読むのを辞めて検索結果に出てこないようブロックするのだが、どうせなのである程度読み込んで記事ネタにしようと考えた。

 

なんならブログを晒し上げたいくらいだったが、筆者は個人を特定できるような書き方は極力控えているのでそれはしない。

 

もちろん個人のブログだから何を書いても自由である、筆者はその個人に直接何か物申すことはしない。

クソコメやクソリプみたいなことはしないが、自分のブログで徹底的にこきおろすのが信条だ。

 

 

つまらない人間ほど値段や性能にこだわり、他人に絡んでくる

端的に言えばその不快なブログは下記で9割を占めていた。

  • 限定品を持ってるアピール
  • 高級機材を使っているアピール
  • たくさん持っているアピール
  • (+それら機材が至高であり安物やノーマル品はダメという比較←比較したこともないのに決めつける)

 

経験上、上記のようなアピールをするパンピーは大抵性格が悪く陰で嫌われているタイプで空気が読めないウザい奴であった。

 

(筆者もまた性格が激悪であるが、そもそも穏和で平和的な方々には性格悪く対応する必要がない。加えて言えば、他者にマウントかまして安心しないといけないような脆弱な精神はもっていないためである。自分で自分を認めている。)

 

こういう奴は大体自分で試行錯誤をせず、なんでも人任せにする。

金があるなら全部人に頼み、それさえも「俺にはプロが付いているぞ」といわんばかりにアピール要素とする。

 

「金を払うしか能がない(金だけはある)」という点では、その業界で商売をする人にとっては太客(良いカモ)である。その視点で見れば金ヅルとしては素晴らしいムーブだ。

 

 

とはいえ「自身で試行錯誤して知識や経験を積み重ねて成長していきたい」という姿勢の愛好家にとっては非常にめんどくさい人間でもあるのだ。

 

 

なぜなら彼らは「自分の不安を他者に慰めてもらおうという行動原理」で他人に嫌な絡み方をしてくるためである。

 

故に自慢の仕方も卑しい上、話の内容もひどくつまらない。

 

向こうから話しかけてくるような積極性はあるが、こちらの話を聞くつもりなどさらさらなく、何かと自身が所有する高級機材やその素晴らしさに話を持っていこうとする。

 

こちらが一切そこに触れないと、話をねじ曲げてでも「これいいっすよ」などと唐突に機材アピールを始め「それ⚪︎⚪︎じゃないですか!すごい!」と言わせようとしてくる。

 

 

リアルでのマウント人間は顔をずっと見ているとすぐわかる

そもそも、そいつ単体は何の功績もなく「高い金出して高級品抱えてるただの凡人」である。

無駄にオーバースペックにしてイキリ散らしてる割に、持ち主のスペックが救えないレベルに貧弱なのだ。

使いこなせていないのに「俺はシーンの最重要人物感」を醸し出しているのが絶望的にダサいのだが、本人は気付いていない。

 

彼らはこういう声を「高級品を持てない僻み」だと解釈してしまうので、一生分かり合えないのだ。

 

高級品を持っている人でも、その人個人のすごさ(何かの結果や功績)がわかるのなら、多くの人は「さすが一流は持ち物も違うな〜」となるのだから。

 

 

さらに言えば機材マウントを取るのは大体中年のみったくねぇオヤジである。

まだエントリー機材で謙虚に振る舞ってる方が愛されキャラになれるだろう。

 

マウントしそうな人間が近づいてきたら顔をずっと見ているといい。

 

他人の持ち物を舐めるように見ている。そして「あぁ、勝ったな」というような表情を浮かべて安心して話を続けてくるのだ。

 

ちなみに自分の持ち物の方がグレードが低いとわかると無言になり距離を置き始める。

「他人を持ち物でしか見てないゴミだな」ということがよくわかる。

 

また、反論するときに「俺のこれウン万円したんだぞ!」などと金額を理由にする奴も大抵カスだ。

 

これもまた、幼少期からまともな情操教育を受けられずに歪んだ価値観のまま大人になったためであり、教育的被害者だと思えば同情心も湧くが。

 

 

機材マウントおじさんの生息地

 

  • カメラ(一眼レフ)
  • 音響(スピーカーやアンプ)
  • 楽器全般
  • 自転車(特に車輪の小さい自転車に多い)
  • 腕時計(機械式)

 

機材というだけあって高級モデルの存在するカメラや音響系の分野に多いが、スポーツ自転車や腕時計などにもゴロゴロと存在する。

 

これらに興味を持ち同じ趣味同士で他者と交流を深めたいと思う場合、イベントなどに120%マウントおじさんが紛れているので注意したほうがいい。

 

マウントは基本的に同性にかけられる事が多いが、異性へのマウントもある。

下記のYoutuberはマウント経験をつらつらと話しているが、どうせ中年おじさんローディからのマウントなのだろう。

 

www.youtube.com

 

昔、飲み屋勤務の友達から聞いた話であるが、モテない中年おじさんは感性が小学生男子から進化してないので「好きな子に意地悪して気を引く」というドン引きレベルのコミュニケーションを取ってくるという。

 

それがマウントに繋がっているのだとしたら、男の筆者でも背筋がゾクゾクしてしまう。

上記のYoutuberさんは美形なので変な気をもったコミュ障マウントおじさんがたくさん湧いてきそうで可哀想である。

 

カッコいいと慕われ、お手本にされるおじさん

「大人が思うかっこいい大人」といえば、所さんが上位にランクインするだろう。

 

世田谷ベースなどを見ている方であればわかるであろうが、所さんは高級車をいじったかと思えば、中華製のおもちゃの鉄砲を頑張ってカスタムしていたりする。

 

腕時計もロレックスをいじったかと思えば、ディズニーの絵柄が入った安い腕時計を自分の理想のフォルムに削って楽しそうに紹介してみせるのだ。

 

機材マウントに勤しむ「金の多寡でしか物事を評価できない哀れなオジサン」にはこういう創意工夫に富んだ豊かな視点は存在しない。

 

 

また、何かにつけて話の中に自慢が差し込まれるおじさんでいえば苫米地氏であろう。

しかし、筆者は苫米地氏の自慢は不快には思わない。

 

そもそも彼は(自慢には聞こえるが)マウントを取るような言動はしていない。

彼のコレクションはオーディオもパイプもギターも全て高級品揃いであるが、それは自信のなさを埋めるものではないことが話し方や振る舞いからも見てとれる。

 

早口ではあるが情報量も多く、示唆に富んでいる点は興味深い。

故に「ただの自慢おじさん」でとどまらず、多くのファンがいることも納得である。

 

 

最終的には「自己評価=自信」である

機材マウントを取る人というのは端的に言えば自信がないのだ。

 

これは学歴マウントなども同じで、それが無くなったら「ただの人」であるという恐怖心から、常に他人と自分を比較し優越を得ようとする。

 

しかも、自分で自分を認められないから他人を巻き込むのだ。

 

他人と比較するにしても、マウント取らずに黙って陰でガッツポーズしている程度なら可愛いものだが、何としても他人に言わせないと気が済まない人種なのだ。

 

これもひとえに「自分の手で生み出す、自分発で企画しやり遂げる」という経験をせずに、他人が作ったモノやコトの上で生きてきた代償と言えるだろう。

 

いつになったら気づくのかはわからないが、筆者はすでに彼らを識別する視点を持っているので精神安定のためのマウントに付き合う気はない。

令和のネオ意識高い系を考える

みなさんは意識高い系はお好きだろうか?

一時期この言葉が流行り、典型的な意識高い系の言動がクローズアップされたりした。

 

「意識高い系」の場合、やたらと自慢話が多いという特徴を持ちます。自己顕示欲が強く、常に自分の能力の高さや人脈の広さなどを誇示したいという気持ちを持っているので、聞かれてもいないのにその手の話をしたがります。仕事でどういう業績を上げたかや、誰と知り合いで、どういった便宜を図ってもらえるかといった種類の話です。

「意識高い系」と「本当に意識が高い人」の違い10選 - 社会人の教科書

 

上記はオールドスタイルの意識高い系だと筆者は考えている。

意識高い系も進化して然るべきだ。

 

 

ネオ意識高い系は仮想敵を作り、撃墜数を価値にした

意識高い系の「あるある言動」が拡散されると、バカにされることを過度に恐れる潜在的意識高い系はその言動を抑え始めると同時に、その言動をバカにする。

 

オールドスタイルの意識高い系を攻撃することで「私は意識高い系ではない」というアピールに走るのである。

 

しかし、それだけでは差別化にならない。

 

そもそも意識高い系の巣窟であり量産拠点はどこか?と考えると大体はIT業界である。(次点で投資界隈だ)

 

模倣対象は著名なIT系起業家・投資家、ビジネス系Youtuberだろう。

意識高い系は言い換えると「それら業界著名人の狂信者」とも言えるため、有名な彼らの思想や言動が大きく反映される。(模倣するだけだが)

 

しかし、どこの馬の骨ともわからないレベルのパンピーが彼ら(IT起業家など)を真似てたいそうな展望や見解を語ったところ賞賛なんてされなければ参考にもされない。

もちろん大きな資産もなければ、誇れる人脈や学歴もない。

 

そこを無理に繕い押し出せばオールドスタイルの二の舞になってしまう。

オールドスタイルは自分で攻撃しているのでもう使えない。

 

「自分を周囲より上げて見せる」が封じられると「周囲を自分をより下げて見せる」という方向性に向かう。

 

しかし、ご近所同士で争うことはできない。

IT分野は間違えてマウントをふっかけると本物に遭遇し徹底的にボコられる可能性があるからだ。

 

そこで取り入れられたのが「非科学的な思考をしていると思われる人々への徹底的なマウント」である。

 

これは昔からあった。理系を自称する人達の中には非科学的なものに親を殺されたかのごとく憎む人がいる。

 

しかし、彼らとの違いは「非科学的かどうかはどうでもいい」という点である。そこじゃないのだ。

 

金や学歴、人脈など目に見えてわかる武器がない以上「こんな俺でも必ず勝てる」という点が何より大事なのだ。

 

そして彼らは撃墜数を勲章にした。

 

 

だからネオ意識高い系は自身で考えることよりもソース(情報の出所や権威性)を重要視する。

非科学的なものを信じている(と思われる)層はマウントを取り論破する相手としてあまりにも都合がいい。

 

 

ここまで読んだ人であれば、とあるIT畑の有名人が脳裏に浮かんだであろう。

なぜ彼があそこまで持ち上げられたのか、わかる気がしないだろうか。

 

 

ま、私の感想ですけど。

 

 

そして、彼らにとっての晴々しいデビュー機会が2020年に起こった。

おかげさまで昨今は情弱ならず陰謀論者というワードが首位を独走中だ。

 

 

ネオ意識高い系の弱点

  • 「非科学的かどうかはどうでもいい」という点である。
  • 自身で考えることよりもソース(情報の出所や権威性)を重要視する。

 

上記は筆者が述べてきた一部を抜き出したものだが、弱点はここに尽きる。

フォロワー集めに躍起になる人同様、勝利の質ではなく数なのだ。

 

ネオ意識高い系は同じような勝利を重ねることしかできないうえ、仮に状況が変わっても安易に手のひらを返すことができないのである。

 

なぜなら撃墜数を勲章に他人にマウントを取りまくってきたのだ。

撃墜しても相手は死んではいない。風向きが変われば一斉に反撃を喰らうまでだ。

 

(風向きが変わらないことも見越して権威に縋る訳だから彼らは負けを認めないが)

 

 

ネオ意識高い系の本質は「他者依存」であり、負けることへの過度な「恐怖」にある。

 

このあたりは人脈自慢の多いオールドスタイルとほぼ変わってない。

 

 

「模倣→自立」ではなく「模倣→依存→模倣→依存」のループに入ってしまった。

 

だから依存先がダメになるとフリーズしたかのように路頭に迷う。

かといって散々マウントかました側に寝返ることもできず、負けを認められないと小学生みたいな「レッテルの連呼モード」に入る。

 

口では「奴らとは議論をする価値がない」などと言うだろうが、議論できないからレッテルの連呼で回避せざるを得ないという状況なのだ。

 

 

 

こうして見てみると、奇妙なまでに機械的(コンピューターという意味)な挙動なのだ。

彼らは確実にAIに依存先としての活路を見出しているし、誰かが言った「AIが人間を管理する世界」というのは決してファンタジーだとは思えないと感じてしまう。

 

 

 

信じるか信じないかはあなた次第だ。

 

 

 

馬鹿と貧乏はうつる。感染しない方法

www.youtube.com

 

バイクの動画を探していたら、たまたまこんな動画にでくわした。

渋谷のハロウィンでの事故らしいが、この動画にはバイク事故よりもヤバい日本人の本質が見て取れる。

 

似た者同士で引き寄せ合う世界

動画内で爆音を出しイキっていたバイクがタクシーに衝突したのち、まるでエコーのように「フォー」という煽り声が聞こえる。お祝いでする手笛も聞こえる。

 

項垂れているライダーに声をかける者は誰もおらず、遠巻きから煽り立てるか、スマホで撮影する人達ばかりだ。

 

0:59には「偶然遭遇してよかったな」という何者かの話し声も入っている。こんな事故現場に遭遇して何が良かったのか。

 

動画のコメント欄を見ると大半がバイクで事故を起こした人達に対する中傷や嘲笑ばかりである。

中には筆者が思う異常さを意図したコメントもあるが、つまるところ

 

イキリ散らかしたバイクが無様に事故る姿を見てメシウマ

 

といった気分なのだろう。

確かにバイクのライダーはイベントに浮かれて調子に乗っていたのかもしれない。

 

しかし、周囲に乗じて煽り立てている輩も相当なイキリ行為であり、こういう輩は大体一人ではモノも言えない小心者であることが多い。

 

この動画は「イキって失敗した奴をバカにしてイキる、同じ穴のムジナ」を見事なまでに映し出している。

 

 

陰湿いじめ体質国家JAPAN

日本は〜というと主語警察に取り締まられるのだが、日本はことごとくスネ夫みたいな精神性に毒されている。

 

つまり「偉い者、強い者」にはヘコヘコするが、「弱い者」はとことん馬鹿にしてマウントを取りイキり散らかすのだ。

 

唯一スネ夫と違う所があるとすれば、経済状況である。スネ夫は経済的には裕福である。

 

貧困化まっしぐらの日本国民は「自分が弱者側であるにも関わらず、上に噛み付かず自分よりさらに弱そうな奴を叩く」というゴミカスエディションになっている。

 

ワクチンの時もそうだ。

政府のゴリ推し戦略をまんまと盲信し、御用医者や専門家、Youtuberの信者は「反ワクチンは社会に不要だ」というような極端な思想を持ち少数派である人達を攻撃した。

 

政府や医者という権力の後ろ盾があるのをいいことに、正義を振り翳しいじめの限りを尽くしたのだ。

多様性がどうのこうの言ってるくせにこのザマである。

 

最近、例のワクチンでYoutuberや医師がお祭り騒ぎになっているが、4年も経ってようやく風向きが変わっているのだ。

 

news.yahoo.co.jp

 

www.47news.jp

 

 

馬鹿と貧乏を貰わない方法

馬鹿と貧乏は感染するのだ。

それ防ぐワクチンはないし、マスクをしても無駄である(笑)

 

感染しない方法は至ってシンプルであるが、人により絶望的に困難だろう。

なぜなら、馬鹿と貧乏を貰わない唯一の方法は少数側になることであるからだ。

 

考えること、やること、すべて少数側になれば馬鹿と貧乏はうつらない。

 

 

※「うつらない」と言っているだけであって「ならない」とは言ってないことに留意してほしい。

常に最善を選んでいる自覚を持つというライフハック

人は常に最善を選んでいる。

 

過去を振り返り「あのとき勇気を出しておけば」や「あのとき誘惑に乗らなければ」と思うことは誰しもあるだろうが、人間の想像はせいぜいそこまでだ。

 

それをした後の展開まで棋士のように考えた事はあるだろうか?

あのとき、それをしたせいで今よりさらにとんでもない窮地に陥る未来の可能性を考えたことがあるだろうか。

 

無論、そんなこと考えても無駄に脳みそを疲労させるだけで何の意味もない。

なのに人間はしばしば過去を振り返り「あのとき・・・」と自己嫌悪に耽る。

 

 

ゆえに人間には下記のどちらかを選ぶことを余儀なくされる。

 

  • 今現在を選択ミスの延長だと思い生きるか
  • 今現在を最善の選択の延長だと思い生きるか

 

前者を選べば「あの時から選択ミスという道に迷い込んだ。過去に戻りもできないしもう詰んだ」というマイナスの解釈が続きやすい。

 

後者を選べば「現状も不幸や災難はあれど、もっとひどい目に遭う所をこれだけで済ませることができた」という解釈なり、プラスに転換しやすい。

 

不幸中の幸いというよりは「幸い(という道中での)不幸」と見るのである。

 

 

自死を選んだ人は最善を取ったのか?

この理屈を聞けば「じゃあイジメやなんやで自殺した人は最善を取ったとでも言いたいのか?」と怒り出す人もいるだろう。

 

YESである。

戦うでもなく、逃げるでもなく、耐えるでもなく自死を選んだ人たちには「これ以上生きていても幸せなどない」という確信があったのだろう。

 

筆者も含め、多くの人は「生きていれば楽しいこともあるし、いま辛くても居場所はどこかにある」と彼らを諭したくなるだろうが、それは私たちには「生きていれば楽しいこともあるし、いま辛くても居場所はどこかにある」という確信があるからだ。

 

だから生きていられるのだ。その確信がなければ私たちもまた平気で命を投げ出すようになる。

今生きている人間は「生きていることが最善」だと確信しているから命を投げ出さないのである。

 

(あるいは「死の恐怖を味わうくらいなら生きている方が最善」という人もいるだろう)

 

 

「そんなのおかしい」と行動を起こすのも最善である

上記の例を聞いて「じゃあ他人の自死は止められないというのか?そんなのおかしい!」と貴方が何かしらの自死防止のための行動を起こしたなら、それもまた(貴方の人生の中での)最善である。

 

「そわかの法則」で一時期有名になった小林正観氏は自著で「人生のシナリオは全て決まっている」とよく述べている。

 

その主張に反論したくなる人も多いだろう。

 

しかし、筆者から言えば仮に人生のシナリオが決まっていたとして、それでも抗おうとすることもまた最善なのである。

 

筆者的には「決まっている」より「決めたことはもれなく最善である」という解釈のほうが好きだが、どちらも似たようなものである。

 

 

よくスポーツや芸術など、いくらやっても結果が出ず日の目を見ない人がいる。

 

もしかしたら、その人は「結果を出し他人から注目される日はこない人生シナリオ」なのかもしれない。周囲は「さっさと諦めるべき」などと言うだろう。

 

それを聞いてもなお、諦めずその対象を続けたいと思ってしまう感情が湧いたなら、それもまた織り込み済みのシナリオなのだ。

 

(逆境に抗い続けるシナリオといえよう)

 

 

 

何をしても最善。何が起こってもそれに対する考えや行動は常に最善。

これは世間で言われている思考停止とは違う。

考えるなとは言ってない。(考えろとも言わないが)

 

自身の選択は全て最善であり、その場面場面において間違った選択など過去に一度もしていないということに気づけ。ということである。

 

私たちは自らの人生において、選択ミスなどしていない。

よって今も「最善の道」を歩み続けている。

 

例えば貴方が未来で凶悪犯罪者になろうとも、薬物中毒者になろうとも、それも最善である。

 

日本に悲観して海外移住するも最善、地方議員に立候補して少しでも日本を変えたいと思うも最善である。

 

今まで他人に横柄だった人間が、ふと反省し改心しようと思うも最善。

数ヶ月後にまた横柄に戻っているのも最善である。

 

 

常に最善を選んでいる自覚のある人間に過去はあってないようなものとなる。

なぜなら最善を選び続けている自覚がある以上、過去を否定しようがないからだ。

 

「あのときああしておけば・・・」なんて自己嫌悪ループには入らなくなる。

このループ遮断がどこか思考停止に感じられるのだが、仮に思考したところでネガティブで無意味な過去の振り返りなのだ。

 

(もちろん、過去を振り返り自己嫌悪に苦しむのも(その人にとっては)最善ではあるのだが)

 

 

これはスピリチュアル的な話ではなく、実用的な精神維持のためのライフハックとしてもおすすめである。

他人のブログに暴言を吐き捨てる愚かな弱者中年男性

昨日、とある分野の解決法を探すためネットを彷徨っていた。

たどり着いたブログでその解決法を知った訳であるが、その記事に非常に愚かしいコメントが書かれていた。

 

筆者はそれをみて非常に不快な気持ちになった訳だが、そのブログ主は丁寧にコメント返しをしていた。

 

 

心が荒れている人間の相手はしてはいけない

 

筆者もこのブログで辛辣な言葉を使うことはあるし、嫌いな性格の人間には容赦せず否定的な文を連ねる。

 

しかし、筆者は自分のテリトリーで思いのままに叫んでいるだけだ。はてなブログの規約に触れているならいざ知らず、読者には誰に文句を言われる筋合いもない。

 

故にコメント欄など設ける気もない。

筆者はそいつらに吐き捨てる場所など与える気もないし、勝手にイライラして生きてってくれとしか思えない。なんせブログを読んだのはテメェ本人なのだ。

 

読むのを序盤か途中でやめればいいものを、全部読んで勝手に憤慨している。

 

 

過去にもブログを運営したことはあるが、たまに頭のおかしい(日本語もおかしい)奴が吐き捨てるようなコメントを入れてくることがある。コメント欄がないと問い合わせフォームから入れてくることがある。

 

そのコメント文体をまともに受け取るならおそらく男性で、かつ中年だと思うが、これを納得させる記事も見つかるほどだ。

 

www.kobe-np.co.jp

 

どの年代、性別にも誹謗中傷や罵詈雑言を吐く奴はいるが、ネットに不慣れな中年男性の文体は日本一気持ち悪い。

 

  • 句点が異常に多い(あるいは句点が一切ない)
  • 誤字脱字が多い
  • ボケ!アホ!カス!の多用
  • 視点が意味不明(急角度から切り込んだ暴言)

 

「おじさん構文」「おばさん構文」というものがあるが、謎にキレる中年・高齢の文体にも共通項があると思う。

 

筆者が学生の頃、部活で関わりのあった高齢男性が急にキレた場面に遭遇したことがある。

部員の一人が「なるほど!」と言った数秒後に「何がなるほどだ!ふざけてんのか!」と烈火の如くキレたのだ。

 

こういう無差別理不尽な地雷を持つ中年男性、高齢男性とおぼしき存在は過去20年をみる限り多くなったと思う。特にネットでは物事の背景を読み取れない人がキレ散らかす。

 

男性にも更年期があるという。それ自体をバカにするつもりはないが、心が荒んだネットリテラシーの乏しい中年男性・高齢男性という存在はどうしようもなく醜い。

 

そもそもだが、心が荒んだ人間の相手をしてはいけない。それが友人であれ家族であれだ。

 

もちろん筆者も心が荒れた時期がある。

だから何かに当たりたい気持ちはわかるが、当たられる方からしたらたまったものじゃないのである。当たった末に楽になれることもない。

 

誰も助けてくれないし、誰も助けるべきではない。

別に「人情のない冷たい社会」を作りたくて言ってるのではない。むしろ逆だ。

 

他者を見て自身を振り返り、自ら立ち直れない奴などどうあがいても明るい人生にはならないのだから。

 

不買運動・買わない宣言は生理的に無理な奴との付き合いを避ける心情と同じ

よく不祥事や問題が起こると不買運動をする人たちがいる。

かく言う筆者もセブンイレブンが嫌いなのでセブンイレブンではないコンビニを利用するようにしている。

 

このような発言を見て「不買運動とかして何があるの?無意味でしょ」と疑問に思う人がいるらしい。

 

彼らはおそらく「(不買運動とかする人は)不買することで企業にダメージを与えたいのだろう」と捉えている。

 

だからこそ「そんなことしても(たった一人の不買なんか)無意味でしょ」みたいな文句が続く。

 

筆者の経験上こういう「不買運動に意味ないでしょ」とか言っちゃう人達は妙にニヒルを気取った自称サバサバ系に多い印象であったが、さらに言えば「自分は合理的で感情的にならない知性のある人間だ」くらいに考えている。

 

それこそ論破芸人や変なメガネのおっさんを崇拝してたりする。

 

 

不買運動をする人達というのは、もちろん意図的に(その企業を)選ばないことでダメージを与えたいという人もいるだろうが、その根本には「もう生理的に無理」という感情があるのである。

 

人間誰しも「生理的に無理な奴」がいるだろう。

仕事では仕方なく付き合わなきゃいけないなんて事もあるだろうが、そいつとプライベートで仲良くするか?と言えば答えを聞くまでもない。

そいつに不幸があったら「ざまーみろ」と思うだろう。

 

不買運動をする人達の心情もそれと全く同じである。

「ウザくてキモくてどう頑張っても生理的に受け付けない。関わりたくないでヤンス」という気持ちが根にあるから不買をするのだ。

 

イメージとして不買宣言に女性が多いのも、女性のほうが感情優位なためである。

(もちろん男性にもいるから、性別でどうこう言うべきではないかもしれないが)

 

 

とはいえ、国民にとって買い物というのは一種の投票でもある。

 

「一人が不買したところで無意味でしょ」というのは「一人が投票したところで無意味でしょ」という選挙制度を真っ向から否定する態度と何ら変わらない。

 

故に筆者は不買宣言を嘲笑うように見る人達を「こんな事もわからないで無意味とか言い出すなんて中学生かな?大人ならクソキショいな〜これでニヒル気取ってんだからマジで生理的に無理だわ〜」と盛大に蔑んでいる。

 

 

冒頭で書いたように筆者は該当のコンビニが嫌いだから利用しないようにしているが、それでもそのコンビニは順風満帆だ。

 

でもそれでいいのだ。調子良かろうが悪かろうが「利用しない・選ばない」だけなのだから。

筆者は「金という名の投票券」を絶対にそこに投じないというだけなのだ。

 

 

ポジティブにいうなら「金を落としたい魅力ある企業や製品が他にある」ということになる。

そういう製品を知らず、探しもせず「目の前にあるものをなんとなく掴んでるだけ」でも別に個人の人生だし勝手だとは思うが。

 

 

 

面白いことに「選ばない奴は選ばれる側に回ってしまう」という話もあるが、少しズレるのでいつか書こう。

 

生理的に無理な奴らとなんとなく付き合って幸せになれるほど人生は長くない。