人は常に最善を選んでいる。
過去を振り返り「あのとき勇気を出しておけば」や「あのとき誘惑に乗らなければ」と思うことは誰しもあるだろうが、人間の想像はせいぜいそこまでだ。
それをした後の展開まで棋士のように考えた事はあるだろうか?
あのとき、それをしたせいで今よりさらにとんでもない窮地に陥る未来の可能性を考えたことがあるだろうか。
無論、そんなこと考えても無駄に脳みそを疲労させるだけで何の意味もない。
なのに人間はしばしば過去を振り返り「あのとき・・・」と自己嫌悪に耽る。
ゆえに人間には下記のどちらかを選ぶことを余儀なくされる。
- 今現在を選択ミスの延長だと思い生きるか
- 今現在を最善の選択の延長だと思い生きるか
前者を選べば「あの時から選択ミスという道に迷い込んだ。過去に戻りもできないしもう詰んだ」というマイナスの解釈が続きやすい。
後者を選べば「現状も不幸や災難はあれど、もっとひどい目に遭う所をこれだけで済ませることができた」という解釈なり、プラスに転換しやすい。
不幸中の幸いというよりは「幸い(という道中での)不幸」と見るのである。
自死を選んだ人は最善を取ったのか?
この理屈を聞けば「じゃあイジメやなんやで自殺した人は最善を取ったとでも言いたいのか?」と怒り出す人もいるだろう。
YESである。
戦うでもなく、逃げるでもなく、耐えるでもなく自死を選んだ人たちには「これ以上生きていても幸せなどない」という確信があったのだろう。
筆者も含め、多くの人は「生きていれば楽しいこともあるし、いま辛くても居場所はどこかにある」と彼らを諭したくなるだろうが、それは私たちには「生きていれば楽しいこともあるし、いま辛くても居場所はどこかにある」という確信があるからだ。
だから生きていられるのだ。その確信がなければ私たちもまた平気で命を投げ出すようになる。
今生きている人間は「生きていることが最善」だと確信しているから命を投げ出さないのである。
(あるいは「死の恐怖を味わうくらいなら生きている方が最善」という人もいるだろう)
「そんなのおかしい」と行動を起こすのも最善である
上記の例を聞いて「じゃあ他人の自死は止められないというのか?そんなのおかしい!」と貴方が何かしらの自死防止のための行動を起こしたなら、それもまた(貴方の人生の中での)最善である。
「そわかの法則」で一時期有名になった小林正観氏は自著で「人生のシナリオは全て決まっている」とよく述べている。
その主張に反論したくなる人も多いだろう。
しかし、筆者から言えば仮に人生のシナリオが決まっていたとして、それでも抗おうとすることもまた最善なのである。
筆者的には「決まっている」より「決めたことはもれなく最善である」という解釈のほうが好きだが、どちらも似たようなものである。
よくスポーツや芸術など、いくらやっても結果が出ず日の目を見ない人がいる。
もしかしたら、その人は「結果を出し他人から注目される日はこない人生シナリオ」なのかもしれない。周囲は「さっさと諦めるべき」などと言うだろう。
それを聞いてもなお、諦めずその対象を続けたいと思ってしまう感情が湧いたなら、それもまた織り込み済みのシナリオなのだ。
(逆境に抗い続けるシナリオといえよう)
何をしても最善。何が起こってもそれに対する考えや行動は常に最善。
これは世間で言われている思考停止とは違う。
考えるなとは言ってない。(考えろとも言わないが)
自身の選択は全て最善であり、その場面場面において間違った選択など過去に一度もしていないということに気づけ。ということである。
私たちは自らの人生において、選択ミスなどしていない。
よって今も「最善の道」を歩み続けている。
例えば貴方が未来で凶悪犯罪者になろうとも、薬物中毒者になろうとも、それも最善である。
日本に悲観して海外移住するも最善、地方議員に立候補して少しでも日本を変えたいと思うも最善である。
今まで他人に横柄だった人間が、ふと反省し改心しようと思うも最善。
数ヶ月後にまた横柄に戻っているのも最善である。
常に最善を選んでいる自覚のある人間に過去はあってないようなものとなる。
なぜなら最善を選び続けている自覚がある以上、過去を否定しようがないからだ。
「あのときああしておけば・・・」なんて自己嫌悪ループには入らなくなる。
このループ遮断がどこか思考停止に感じられるのだが、仮に思考したところでネガティブで無意味な過去の振り返りなのだ。
(もちろん、過去を振り返り自己嫌悪に苦しむのも(その人にとっては)最善ではあるのだが)
これはスピリチュアル的な話ではなく、実用的な精神維持のためのライフハックとしてもおすすめである。