撃っていいのは撃たれる覚悟のある奴だけだ (うっていいのはうたれるかくごのあるやつだけだ)とは【ピクシブ百科事典】
最近、誹謗中傷絡みでこの手のセリフを引用する輩を良く目にする。
この言葉がやたら名言として扱われることに違和感しかない。
上記の「撃つ、撃たれる」は攻撃と言い換えることができる。
「攻撃していいのは攻撃される覚悟のある奴だけだ」ということになる。
要は「何かをやるなら、それが持ちうる別の側面があることを覚悟しろよ?」という話である。
(自分が他人にした行為と同じことを受ける覚悟という意味になりがちだが、何かの行為に対する負の側面への覚悟ともとれる)
- 「騙していいのは、騙される覚悟がある奴だけだ」
- 「牛を食っていいのは、牛に食われる覚悟がある奴だけだ」
- 「殺菌していいのは、菌に殺される覚悟がある奴だけだ」
全部同じことだ。
何かの行為には必ず負の側面がある。他人を絡めるとこういうのもある。
- 「お前がXX大学を受験して合格したせいで1人落ちた奴がいる」
- 「お前が買ったせいで買えなかった奴がいる」
- 「お前が生きてるせいで生きられなかった奴がいる」
覚悟を言い出すと自らの行為・思考全てに負の側面があることがわかるが、そんなこといちいち気にしていたら人間生きていられないのだ。
しかし、この言葉(撃っていいのは〜)を持て囃す輩は普段からそんなに覚悟して生活しているのか?
筆者にはそうは思えない。
この言葉を使う人達も所詮はネットの誹謗中傷など自分が許せないと思う場面でのみ都合よくこの言葉を持ち出してくる。
内容にもよるが、ほぼ100%の人間が「なんとなく」で手を出して酷い目にあったり、逆に成功したりしている。
だから大体みんな「なんとなく撃ってる」のだ。
誹謗中傷している奴をとっ捕まえて顔を見てみれば、気弱そうなインキャ学生や主婦だと言うではないか。
彼らは別に覚悟などしていないし、これから出てくるそういう人達も覚悟などしない。
「撃っていいのは撃たれる覚悟のある奴だけだ」なんて言葉に何の意味も価値もないのだ。
聞こえが良いので名言っぽく使われるが、言った所で、知った所でどうにもならない。
得意げにこの言葉を使う人達もまた、何かで大損こいたら「こんなはずじゃなかった」と言い出すだろう。
こんなはずなんだよ。あんたらの持て囃す言葉の世界観だと。あんたらに覚悟がなかったのが問題だ。
となる。これは問題の根本的な解決にはなっていない。
誹謗中傷はよくないが、誹謗中傷に「撃っていいのは撃たれる覚悟のある奴だけだ」とか言い出す奴は問題の本質を何も見ていないし、むしろ社会を締め上げる方向に動いている。
どうせ自分も大した覚悟をしてないくせにだ。
さらに俯瞰すれば
覚悟を求めるような発言をしていいのは、覚悟を求められる覚悟のある奴だけだ
とも言えてしまう。
いちいち覚悟を持ち出すと「なんとなく」という心の遊びを自ら捨てることを意味する。
「他人に覚悟を求めるお前には覚悟があるってことだな?あぁ?」となる。延々とそのループだ。
筆者は適当なので「覚悟なんかなくてもやっていいんじゃない?どっちに転んでも知らないけど」という立場を取りたい。