筆者がテレビを見ていたとき、たまに孤独死の特集なんかを見たことがある。
高齢になり配偶者も先立って一人で戸建てやマンションに住み、死後しばらく経って発見されるというものだ。
これを悲惨な事として「つながりを作りましょう」という一見真っ当に思えるキチガイソリューションを提示して終わるのが普通だ。
そして、その煽りを受けて多くの人間が「孤独はダメなことだ!」「孤独死なんて最悪!」「孤独にならないようにしないと!」と孤独というものを悪者扱いする。
しかし、これは全くの間違いである。
孤独を恐れる人間が孤独プロパガンダの工作員になる
そもそも孤独から逃れる事は不可能である。
例え親友がいようが、友人が何百人といようが、恋人がいようがセフレがいようが結婚して子供が何人いようが孤独から逃れることはできない。
- 学校の中で居場所がない
- 会社の中で居場所がない
- 家庭の中で居場所がない
およそ上記のような悩みを抱える人は多い。
これは「他者とのつながりや社会的ポジションが孤独を埋めることはない」という証明であり、これがわからない人間ほど上記のような集団の形に固執する。
よく定年退職して家に居るようになったら社会的に必要とされていない感覚が猛烈に堪えるという人もいる。
これはどういうことかと言うと「今までは仕事を利用して孤独から目を逸らしていた」そのツケが回ってきただけである。
この世には孤独から目を逸らすイベントはたくさんある。
- 友達と遊んで
- 仕事に精を出して
- 子育てして
- 酒を飲んで
- 恋人を作って
- 推し活(趣味)をして
- 旅行や買い物をして
筆者は学生の頃、当時の友達が「人と遊んで別れるときが寂しい」と言っていたのを何故だかよく覚えている。
結局、これらは一時的に孤独から目を逸らすことができるが、必ず効果の切れるタイミングがやってくる。
1錠飲めば永遠に作用し続ける薬がないのと同じである。
そして、孤独を恐れる多くの人間が「孤独は怖いものだ!」「孤独になったらおしまいだ!」と孤独プロパガンダの工作員に自ら志願し始めるのだ。
それだけならまだしも、周囲の孤独そうな人を見ては「ほれみろ!孤独は最悪なんだ!みんな気をつけろ!」と他の人を仲間に引き入れようとする。
まるでマスクを手放せなくなったコロナ脳と呼ばれる方々と同じである。
マスクをして感染した人間など掃いて捨てるほどいるのに、今だにマスクが感染予防に有効だと信じ続けてマスクをしない人を糾弾している。
“When it comes to the population-level benefits of masking,” writes Bret Stephens, “the verdict is in: Mask mandates were a bust.” https://t.co/benXaeBwQ1
— New York Times Opinion (@nytopinion) 2023年2月22日
NYタイムズ「マスクは何の役にも立たなかった」/評決は下された。マスク着用は失敗だった。義務化を支持した主流の専門家や評論家たちは間違っていたのだ。 | Total News World
海外はずっと前から、国内でもバレ始めた「お上が作ったデタラメルール」には目も向けず、彼らのデタラメを肯定し続けているのだ。
人間はすでに孤独において二極化と分断が進んでいる
昨今の技術革新において何かと「時代の変化についていける人といけない人で二極化するだろう」なんて色々語る人達がいる。
しかし、そもそも「孤独を受け入れる人と拒み続ける人」ですでに二極化している現状を知ってほしいものだ。
孤独を拒み続ける人というのは死ぬ最期まで孤独を耐えがたい恐怖として、誰かしらに縋ろうとするだろう。
というとあらぬ誤解をされてしまいそうだが、筆者は別に「人と関わるな」と主張している訳ではない。
他人は他人であり、自らの孤独を埋め続ける存在には絶対になり得ない。他人とのつながりで孤独が防げると思ったらとんだ勘違いだ。と言っている。
筆者だって「誰かと一緒ならなお楽しいだろうな」と思い一人で飯を食うこともある。
しかし、それは良くも悪くも一時的なものである上、視点が違えば「孤独のグルメ」(漫画のね)という見方もできる。自分の心一つなのだ。
昨今はYoutubeなどで仏教に博識な方達が昔からのありがたい知恵を紹介してくれている。
ネットを通じたこのような活動でおそらく孤独プロパガンダの工作員は減っていくだろうが、宗教イベントをチャンポンしておいて「自分、無宗教なんで」とか抜かす現代日本人はまだまだ工作員だらけだと見る。
しかし気づいた人から少しづつでも孤独を受け入れていくだろう。
孤独を受け入れ、穏やかに生きていくことをしている人達と孤独を恐れ抗う人達は距離感や温度感が違うので、よりいっそう交わりにくくなるのだと考える。
死に際にさえ注文つける人間の傲慢さ
まぁアパートやマンションで腐乱した姿で発見されたらそれはそれで残された人達には衝撃が走り、物件の大家は悩むだろうが、比較的綺麗な環境で生モノが暮らしているんだからしょうがない。
もしこれが自然の中であれば、動物やなんやが屍をついばみに来て、ハエが集りウジ虫が湧き、食い尽くされて最終的には骨になり自然の一部となる。
そんなもの、野生に生きてる動物にはごく当たり前の光景である。
人間だけなのだ。死に際がどうのこうので悲惨だのなんだの抜かすのは。
ぶっちゃけ死んだ後のことなどどうにもできない。
死後の後片付けなど自分でできるはずもなく、そこに悲惨もクソもない。
ちゃんとそういうご時世に合わせて特殊清掃業という仕事もある。
「あの人孤独死したらしいよ」という噂など20~30年もすれば、噂をする人間も皆死に絶えるだろう。
中には噂をしていた人も孤独死していたなんて顛末もあるかもしれない。
逆に、傲慢な人間は一体どういう死に際なら孤独死じゃないと思えるのだろう?
配偶者や子供、友人に見守られながら?それができる環境は病院か?
では長きに渡る闘病生活で「そろそろだ」というお達しが子供達に行くようなシチュエーションで、その子供や友人たちが仕事を休んででもちゃんと出向いてくれるような人間でないといけないだろう。
間違っても交通事故など見守られる間もない即死や、認知症やなんやで施設送りの末の老衰などではダメな訳だ。自殺など論外である。
他にも妻や夫、子供、友人に先立たれるのもNG、子供や友人と不仲になり音信不通などもNGだ。
みんな最期まで綺麗に生き残り、そして自分を見送らないといけない。
悲しいかな、最期の最期まで「他人の感情やスケジュールに左右されるような人生」という以外に表現のしようがない。
孤独と孤立、分けたがる奴
この手の話になると必ず「孤独」と「孤立」を分けて違いを示してくる奴がいる。(たまに「孤高」も混ぜる奴がいる)
うるせーよという話だが、そういう言葉遊びをしたところで何かが変わる事はない。
筆者的にはこういう奴らもまた孤独プロパガンダに毒された産物だと考える。
「孤立はダメだけど孤独はいい」とか「⚪︎⚪︎なのが孤独、⚪︎⚪︎なのは孤高」とか、言葉遊びで上下互換を作って自分を安心させているようにしか思えないからだ。
分けたがる奴は結局受け入れる気がないのである。
見る人から見りゃ「孤独」も「孤立」も「孤高」も全部一緒だ。
他人を見て「あの人は自信ありげに一人を楽しんでいる」と思えた人は孤高という言葉を抱くのだろうし「とはいえ結局一人やんww」という人は孤独や孤立を抱くのだろう。